/ハリーポッターの最終巻「死の秘宝」のクライマックスで、ハリーは魔王ヴォルデモートを滅ぼすには、自分が死ななければならない、しかもヴォルデモートの手によって殺されなければならないことを知り、ひとりヴォルデモートが待ち受ける森に向かうシーンがあります。
「『希望』」はなかった。ハリーは自分が間もなくヴォルデモートの前に立ち何の抵抗もせず殺されることを知っていた」という文章を考えてみましょう。
対照となる文章は、「生物と無生物のあいだ」から次の一文を考えてみましょう。
「死によって生物が無生物になることは一目瞭然(イチモクリョウゼン)のように見えます。では、逆に無生物が生物になるという『希望』は全くないでしょうか。そうとも言い切れないのです」
ここから話は、惑星として出来たての地球が完全な無生物の世界から、ある時、最初の生物が現れる過程を説明していきます。
さあ、この二つの文章に出てくる同じ『希望』という言葉の意味を、子どもはどのように考えるでしょうか。
広辞苑に依ると、『希望』は「ねがい望むこと、またはその事柄。ねがい。のぞみ。」とあります。
殺される自分を想像せざるを得ない物語の中で、『希望』という言葉はどれだけ切実で強烈に響くでしょうか。
「ハリーは本当は生きたいんだろうな。死にたくないんだろうな」という想像の中で読まれるからこそ、切実で強烈に響くのです。
そして、この状況で使われる『希望』という言葉は、「絶望」という反対の言葉をたやすく引き寄せます。こうして、語彙(その人が持っている言葉の総量)が増えて行くことになり
ます。
一方、「無生物が生物になるという『希望』は全くないでしょうか」という文章は、実に淡々と響きます。
実は、無生物が希望を持つような表現を敢えてして、この後の論の展開を予感させているという点で、とても面白い表現なのですが、「無生物」「生物」「希望」という言葉の意味がおぼつかない小学生にとっては、薄暗い道を手探りで進んでいくようなものに違いありません。

つづく