/実際、国語が苦手な小学生、特に受験生は、このように文字通り手探り状態で正解を見つけようとしているというのが私の偽らざる実感です。
話しを戻して、もともとこの文章が、無生物から生物が生まれ、生物が死によって無生物に帰っていくという「理屈」を説明する文章、つまり説明文(論説文)の中で使われているからこその印象の薄さである事が分かります。
逆に言えば、説明文では「理屈」が優先されるので、必要以上にイメージが強まったり弱まったりすることはむしろ避けなければならないという事情があるのです。
もうひとつだけ例を上げます。
「むごたらしく殺されていく人々を前に彼は自らの『思想』が何の役にも立たないゴミのようなものだと悟った」という物語文と、「彼の『思想』は彼が育った環境と分かちがたく結びついたものだった」という説明文を比べてみてどうでしょうか。
小学生の立場で『思想』という言葉の意味を考えてみて下さい。
広辞苑には、①として、「考えられたこと。考え。」と書かれています。
「希望」も「思想」もそのもの自体を目で見ることは出来ません。もちろん触ることも出来ません。「神」や「共感」はどうでしょうか。「文化」や「存在」はどうでしょうか。「孤独」や「愛」はどうでしょうか。
この言葉を基にしてご自分の心の中を探してみる時、あなた個人の物語が浮かび上がって来ませんか。ある情景が浮かび上がっては来ないでしょうか。
同じ言葉でも物語文の中で語られると、その言葉は直接に子どもの想像力の世界に飛躍し働きかけます。その力は、切実で強力です。
物語に親しんでいる暇が無い受験生が「効率よく読解力を身に付けるには」という主題から始まって、もう一度、幼いころから物語に親しむ事の重要性を強調することになってしまいましたが、説明文だけで読解力を上げて行く方法はあります。
ありますとも!もちろんです。

つづく